園概要
本園は創立者「岸辺 福雄」の遺志をつぎ、
“清らかな心と体”
“自分の身の回りを整えることのできる子ども(正しい生活習慣)”
“先生やお友達の話しを聞ける子ども”
を指針としています。
素直な明るい思いやりのある心と健康な身体を育てることを目標に、幼児期にふさわしい生活指導をしております。
学校名称 | 岸辺幼稚園 |
男女校別 | 共学 |
学長等名 | 中島 茂子 |
郵便番号 | 〒151-0064 |
所在地 | 東京都渋谷区上原2-37-13 |
電話番号 | 03-3467-2388 ※営業(勧誘)を目的としたお電話は固くお断りしています。 特定商取引法に違反する場合には、各省庁(消費者庁・経済産業省)に適切な措置をとるよう連絡します。 |
認可年月日 | 昭和23年4月1日 |
沿革 – 開園当時の歩み –
明治36年10月 (1903年) | 牛込納戸町に東洋幼稚園を開く。東京都第1号の私立幼稚園。 自宅を園舎にし、園児3名でスタートした。 その後、岸辺福雄先生が口演童話家として有名になり、園児も増える。 |
明治43年4月 (1910年) | 神田北神保町に園舎を新築し、移る。 同地に東洋家政女学校を開校。 |
昭和2年 (1927年) | 娘のために分園として、代々木上原に「岸辺幼稚園」を開設する。 |
昭和7年 (1932年) | 宮中に招かれ宮様方の前で『桃太郎』や『花咲じじい』などのお話をする。 |
昭和19年 (1944年) | 戦争のため、東洋幼稚園・東洋家政女学校は校舎が徴用され廃園。 岸辺幼稚園は命令により休園となる。 空襲が激しくなり、東洋園舎を売り払い、岸辺幼稚園のみになる。 |
昭和23年 (1948年) | 長男 泰雄氏が岸辺幼稚園を再開する。 |
昭和33年9月 (1958年) | 福雄先生肺炎のため、ご逝去。享年86歳。 |
平成15年10月 (2003年) | 創立100周年を迎える。 |
初代 園長 (1903~1958年):岸辺 福雄
二代目園長 (1959~1989年):岸辺 泰雄(福雄先生長男)
三代目園長 (1989~2000年):岸辺 恭子(泰雄氏妻)
四代目園長 (2000年 ~ 現在):中島 茂子(福雄先生孫)
園主 (1989年 ~ 現在):岸辺 光雄(泰雄氏次男)
創立者 「岸辺 福雄」 経歴
明治6年2月14日 | 鳥取県にて藩医佐藤秀林の次男として生まれる。 |
明治24年 | 兵庫県尋常師範学校に入学。 |
明治28年 | 師範学校卒業後、兵庫県豊岡小学校に勤務。 |
明治33年 | 京都府の「岸辺 かよ」と結婚。岸辺姓を名乗る。 |
明治35年 | 上京して青山師範指導となる。 |
明治36年 | 東洋幼稚園を開く。 |
明治40年頃~大正時代 | 口演童話家として有名になり、多方面で活躍。 山本卿の自由画教育運動に賛同。北原白秋・片山伸らと共に名をつらねる。 ラジオ童話にて活躍。 |
昭和4年 | 東京市会議員に当選。 ~この頃外遊をする~ |
昭和5年 | 東京市の委託により、教育事情視察のため、4回目の外遊。(米州・欧州) |
昭和6年 | 外国の不具児童教育の研究により、東京市初の肢体不自由児学校である「市立光明学校」の設立に尽力する。 (東京都立光明養護学校として現存) 『キンダーブック』の編集に携わり、洋行のみやげ話などを載せる。 |
昭和7年 | 2度宮中に招かれる。照宮・三笠宮・順宮・孝宮に『桃太郎』などのお話をする。 |
昭和16年頃 | 戦争のため、かよ夫人の郷里である京都府に疎開。 |
昭和23年 | 長男泰雄氏が幼稚園を再開。 福雄先生は「おじいちゃん先生」として慕われる。 |
昭和33年9月9日 | 肺炎のためご逝去。享年86歳。 ~亡くなる1年前まで子供にお話を聞かせていた~ |
元来、子供好きでお話の名手であった福雄先生。幼児教育の草分けであり、生涯を通じて取り組んだその功績は、現在でもあちこちで称えられ継承されています。外国視察の経緯から、当時としてはめずらしい、現代にも通じる教育理念を持ち実行していたことも特徴です。創立100周年を誇る幼稚園は大変貴重であり、偉大な創設者の教えと歴史を大切に守っていきたいものです。
著書
- 『お伽噺仕方の理念と実際』(明治42年)
- 『我が幼稚園の一日』(明治43年)
- 『童話の実際とその批評』(大正13年)
- 『若きママさんに』(昭和6年) 他